免罪符

うーん、最近やりきれへん事件が続くなあ。しかも若い連中の。まあ、注目されている時期やから、取り上げる方も過剰になってるきらいはあるんやけど、実際ひどいっちゅうか、無茶な事件が多いような気がする。これは社会派のわし(嘘)としては見過ごすことができひんわ。

最近思うようになったんが、ある特定の言葉で免罪符になってるんとちゃうかなっちゅう気がするんやわ。マスコミがそういう言葉を取り上げれば取り上げるほど、そっちに行くっちゅうことやね。開き直る材料を与えてるんとちゃうかっちゅう気がするわ。

例えば「切れる」っちゅう言葉。確かにわしも良く使う。ただ、自分でも思うんやけど、「切れた」ら、もう周囲がどうこういってもしゃあないっちゅうか、消極的に行動を容認してしまってるっちゅう面もあるように思えるんやわ。感情を抑えきれずに爆発してしまったとき、この言葉って便利やもん。「切れる」っちゅうことを隠れ蓑にして、簡単に爆発してる場合もあるんとちゃうかなあ。

「コギャル」なんかもそう。わしにとってはああいうファッションは気色悪いし、喋り方なんかもかなり気ぃ悪いんやけども、自分でもあいつらはああやねんから、しゃあないと思ってしまっとるんやわ。これを逆手に取って開き直るっちゅうか、そんな風潮も少しはあるような気がするねん。

考えてみたら「茶髪」もそうや(あ、わしのATOKでは一発で変換できひんな。よしよし)。茶髪嫌いのわしにとってはTVに茶髪の一般人(もちろん芸人も)を出して欲しくないんやけど(^^;、あれだけTVにいっぱい出てたらなあ。

こうやって一つのキーワードが大きく取り上げられるたびに、そっちの方へ一斉に流れていく。で、それがたとえ悪いようなことでも、一種の免罪符の役割になってるような気がするんやわ。なんとかこの流れを止めることはできひんのかなあ。受け取り手側の問題やから、マスコミにケチはつけられへんしなあ。

こんな事を考えたのも、うちの近所でも嫌な事件があったんやわ。公園の砂場にまち針が混入してたんやわ。ちょっと・・・やりきれへんやろ。